中国語テキスト
上善若水。水善利万物而不争、 处众人所恶、 故几於道矣。
居善地; 心善渊、 与善仁、 言善信、 政善治、 事善能、 动善时。
夫惟不争、 故无尤。
翻訳
高徳の人は水のごとし。
水は万物を利し争わず、
人々の嫌う所に處る。
故に道に近し。
住むに低きを善とし、
心は深淵のごとく、
与えるに仁を善とし、
言うに信を善とし、
政を治めるに善し、
事を行うに能を善とし、
動くに時を善とし、
争わざれば、故に尤め無し。
注釈
水の性はかくのごとし。柔らかく弱し;空虚なる所に往き、満ちたる所を避く;谷を満たし、海に至るまで流れる。昼夜休まず。上に循環すれば雨と露となり、下に流れれば川となり河となる。植物はこれによって生き、sordida res ut mundæ fiant。かくて水は善 (善 ) く万物を利し、すべての存在に役立つ。堤防を築けば止まり、道を開けば流れる。円き器にも四角き器にも適う。故に争わざるという。
「善 (善 )」(俗に「良い」) はここでは、ウェルギリウスの「エクローグ」V, I の "bonus dicere versus" («詩を巧みに詠む») の bonus の意味である。註解者の徳清は次のように説明する:水善利萬物而不爭 「水の善は万物を利するにありて争わざるなり」。
人は栄誉を愛し、辱めを嫌う;高きを愛し、低きを嫌う。しかし水は低きに急ぎ、そこに居るを喜ぶ;人々の嫌う所に安んずる。
水のごとき者 (すなわち高徳の人) はほとんど道に近しと言えよう。
人がこれを真似る (水を真似る) ことができれば、道に入ることができよう。
蘇子游、劉克復らの註解者は、この節および以下の節を水に関連付けることに重大な誤りを犯しているように思われる。私はF、H、Gおよび洪福に従った。
高きを避け、低きを愛す。「善 (善 )」(俗に「良い」) はここでは「愛し、満足する」(A: hi, lætatur) の意味である。文字通り、「住むに地を善とし」。
心の最も繊細な折り目を隠し、深くて測りがたい。空虚で、純粋で、静かで、沈黙している。
恩恵を施すとき、すべての人に慈しみを示し、特定の誰かに対する愛着はない。
文字通り、「言葉の誠実」。その言葉は実現し、決して欠けることがない。
国を治めれば、人は純粋で静かになり、自ら正しくなる。
事に遭えば、適切に対処し、人を選ばずに果たす。
進むべきか (職を得るため)、退くべきか (職を辞する)、命を保つべきか犠牲にすべきか、天の道に従う。
これが一般に人々の争いの原因である;人は自分を賢しと思い、他人に勝とうとする。もし誰かが他人に勝とうとすれば、他人もその人に勝とうとするであろう。他人から非難されずにいられようか?しかし、誰かがただ謙虚で従順であり、誰とも争わないとき、衆人は喜んでこれに仕え、王として仕えることに飽きることがない。故に非難されない。